二十歳の原点

 最近読んだ本。面白いというのはちょっと違う。学生運動のさなかに死んでしまった一人の女の子の日記。私の親でさえ学生運動はリアルタイムではなかった。その娘であるから、学生運動なんて小説の中のお話だ。でも、村上春樹の初期の小説にはよく出てくる。スプートニクの恋人のすみれそのものとも言えるような気がした。

 これを読み終えることができたのは、大雨による倒木で停電になったから。私はこれを読み、夫は檀一雄の火宅の人を読み終わった。二人の最近のブームは「檀一雄的」な会話ごっこ(唐突でやや神経質で自由を貴ぶ風)。最後の無頼派と呼ばれたハードボイルドで無茶苦茶で、泥臭いほどの人間味のある男前なおっさんだなあと思う。

 それに引き換え高野悦子は脆い。少しの矛盾もない完璧な個としての人間になることが、一人の人間として誠実な姿であると思っていたのか、自分の中のあらゆる矛盾を罰し、アルコールとタバコに溺れ、学生運動と恋に破れた。ご家族には申し訳ないが、繊細過ぎたのだと思う。人は誰でも腹黒いところがあり、打算的で、こすいところがあり、そしてびっくりするほど清らかなところもある。そういう混とんとした生き物が人間であって、だから人間は美しい。

 いつだったか、魚は純粋な水では生きられないということを聞いた。純粋な水とは、混じりけのない水のことだ。精密機械の工場なんかで使われているらしい(詳しいことは知らん)。

 純粋な水なら生命によかろうと思うのが素人で、実際のところは違う。近所の海を見ていても思う。綺麗すぎる水は何も育まない(近年、瀬戸内は水が綺麗になりすぎて魚がいなくなったという噂。事実、漁師さんでさえ「魚がいない」という。飽きるほどメバルやアジを食べていたのになあ)。むしろ、生態系から考えれば、綺麗さなんて質の悪い毒のようなものなのだろう。

 純粋な環境で、培養するように人を育てるなんてことはできない。人は均一化されない。人はどこまでも残酷なほど、それぞれが唯一無二の存在だ。

 嫉妬や妬みや憎しみ、打算やズルさや計算高さがあってこそ、尊敬や尊さや愛しさ、誠実さや忍耐や気高さといったものの価値が分かるようになるのだ。でも、それを二十歳のころの自分に解いたところでこう言うだろう。

「そんな分かった風なことを言う大人にはなりたくない」

 二十歳ぐらいの子なんて誰もが、急ぎ過ぎて、答えが欲しすぎて、完璧になりたくて、傷つきやすくて脆くて狂暴なものだ。あれから20年生きた私は、図太くなって、少々無神経になって、完璧じゃなくて良くなって、(多少は)清濁併せ吞める大人になった。そしてなにより、待てるようになった。たったこれだけで、随分と生きやすくなったなと思う。

 でも、びっくりするけど人生はこれからだ。さあ、これからだ。

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